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【河鍋 暁斎】☆買取コム

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    こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

    今回は河鍋 暁斎です。
    1831年の今日は河鍋 暁斎の誕生日であります。

    河鍋 暁斎とは、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。

    明治初期に投獄されたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。
    狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ自らを「画鬼」とも号している。
    その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。
    最初の妻の父は鈴木其一、三番目の妻から生まれた長女暁翠、次男暁雲も日本画家。

    天保2年(1831年)、下総国古河(茨城県古河市)に生まれる。
    父は古河藩士(養子)の河鍋記右衛門であったが、天保3年(1832年)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷お茶の水の火消し屋敷に住み、甲斐姓を名乗る。
    同時に一家は揃って江戸に出ている。
    幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。
    兄に直次郎がいた。
    天保4年(1833年)、周三郎は母につれられ館林の親類、田口家へ赴いた。
    この時、初めて周三郎は蛙の写生をした。

    天保8年(1837年)、浮世絵師歌川国芳に入門。
    天保10年(1839年)5月、梅雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説を残す。
    天保11年(1840年)、国芳の素行を心配した父により狩野派の絵師前村洞和に再入門。
    翌年洞和が病に倒れたため、彼の師家にあたる狩野洞白に預けられた。
    弘化3年(1846年)には小石川片町からの出火で火消し屋敷も消失してしまうが、このとき火事の写生をしている。
    嘉永元年(1848年)に、現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」を制作している。
    翌嘉永2年(1849年)、洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられる。
    さらに嘉永3年(1850年)11月には秋元藩の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称している。

    嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。
    しかし安政2年(1855年)10月2日に起こった江戸大地震の時に仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」(玩具荘コレクション)によって本格的に世に出ることとなった。
    この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第一号であったが、それは歌川豊国風の女性と鯰の格好をしている遊び人の組合せで、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言いがたいものであった。
    浮世絵では北斎の画風を学んでいる。
    橋本雅邦によると一般に入門から卒業まで11、2年かかると記しており、9年で卒業した暁斎は優秀といえる。
    安政4年(1857年)、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継ぐ。

    安政5年(1858年)、狩野派を離れて始めは「周麿」を称し、のちに「惺々暁斎」と号し浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を博した。
    他に酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵と号し、明治18年(1885年)には仏門に入り、湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。
    この後『狂斎画譜』『狂斎漫画』などを出版、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった。

    1868年(明治元年)、徳川家の転封とともに静岡へ移る。
    明治3年(1870年)10月6日、上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描いたが、政治批判をしたとして逮捕投獄。
    翌年の出獄後は「暁斎」を名乗る。
    この「狂斎」から「暁斎」への改号は、改心というよりは愚かな挑発で二度と痛い目を見たくないという自分への警告の意図であったといわれる。
    また同時に「猩々」を「惺々」(せいせい)に変えたとも伝えられる。

    明治3年から絵日記をつけ始め、亡くなる1か月前まで書いた。
    20年も書いたが発見されているのは4年分である。
    書かれた人の似顔絵が似ているばかりでなく、ありとあらゆる事を記録し、金の支払いから、毎日の天候まで記し、気象庁でも毎日の天気の記録は明治14年(1881年)、からであるから、彼の記録は貴重である。

    明治4年(1872年)仮名垣魯文の『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』などの挿絵を描く。
    明治5年(1873年)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に立てられる。
    明治9年(1876年)、エミール・ギメらの訪問を受ける。
    ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競い合った。

    明治13年(1880年)、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館蔵)を4時間で描く。
    明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」(栄太楼蔵)が「妙技二等」を受賞。
    暁斎はこの作品に100円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたという。
    建築家ジョサイア・コンドルが入門。
    「暁斎絵日記」により、大半は散逸してしまっているが明治3年(1870年)頃から明治22年(1889年)3月頃の暁斎の私生活の状況が、ある程度把握できる。
    例えば明治17年(1884年)2月26日に、「客山本、フキノトウ、大島屋、卵。
    笹之雪参る」とあり、大島というのは、尾形月耕に代わって月耕の弟・名鏡次郎吉の面倒を見ている親戚のことではないかと思われる。
    笹之雪は、台東区根岸にある暁斎馴染みの豆腐専門料理屋である(正確には「笹乃雪」、今日でも根岸名物で著名)。
    同年狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承した。

    岡倉天心、フェノロサに東京美術学校の教授を依頼されたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。
    墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、戒名は本有院如空日諦居士。
    墓石は遺言により暁斎が好んで描いた蛙を象っている。

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    筆:S
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